The Beginning EVE
まりな編 第一話


199X.4.3 肌寒い明け方
鹿児島県阿久根市沖 上空
 「あの船ですかねーっ?」
 バラバラバラバラ……! ヘリコプターの轟音が響く中、あたしの頭部に装着したヘッドセット越しにパイロットの声が届いた。下界を指差しながらあたしの返事を待っている。
 明け始めた暗い空には雲一つない。その下に濃い青の大海原が闇のように広がっている。
 小さな染みのようにポツンと浮かんでいる古びた漁船に目をこらし、あたしは頷いた。
 「オーケイ、あれに間違いないわ。接近して」
 「しかし、法条捜査官 。 海上保安部の巡視船もこちらに向かっているところです。ひとまず保安官の到着を待って、指示をあおぎ……」
 「あいつらの到着を待ってたら夜が明けちゃうわ」
 そう言いながらも、あたしは少し迷った。おじけづく気持ちを奮い立たせるように、ちょっと強めの口調で続ける。
 「いーい? あの船に乗ってる連中は、親戚一同から資金をかき集めて、死ぬ気で海を渡ってきてるのよ。このヘリをみつけた時点で何人かは海にとびこむわ。すぐそこに迫ってるはずの日本の陸地に向かって、ね」
 「そりゃーそうですが、しかし……あっ、法条捜査官!?」
 パイロットが驚いて、操縦桿を握ったままこちらを凝視した。
 あたしはヘリから身を乗り出し、大きく息を吸った。四月とはいえ、夜明けの空気はひんやりとして、骨まで冷気が染みこむようだ。
 どーしよう。あたしは呟いた。でしゃばっちゃいけないのはわかってる。これまでだって数々の事件を解決する過程で、上から口を酸っぱくして言われ続けたことだ。
 あなたは優秀な捜査官だ。確かにね。だが、組織の規律を守らない人間に政府の仕事は任せられない。
 一人が先走って事件を解決するより、みんなで一緒に犯人を取り逃がしたほうがいいってことですか? ……そのたびあたしは思った。そう口に出して上官に食ってかかったこともあるし、胸にグッとしまい込んで、帰りにやけ酒かっくらったこともある。
 このヤマだって、同じだった。ここまではあたしが引っ張ってきた。でも、摘発するのはべつの組織。そして、そいつらが的確に動かなければ、あたしの半年かけた仕事が無駄になってしまうのだ。
 「……接近しなさい」
 「えっ」
 あたしがきっぱりと言うと、パイロットはなにか言いたそうな顔をした。
 「これは上官命令よ」
 「ったって……もっと上官に、後で絞られるのは自分なんで……」
 「あっそ。じゃー、もう飛び降りるわ」
 「わーっ! わかりました、接近します! ……ったく、この高度で飛び降りたら、死んじまうよ」
 「なんか言った?」
 ヘリが高度を下げていく。古びた漁船の甲板に、数人の薄汚れた服に身を包んだ男たちが顔を出し、こちらを見上げたり指差したり、騒ぎ始めている。甲板にあれよあれよというまに人が増えていき、恐怖と憎しみの混じった目であたしを睨む。
 あたしは大きく息を吸いこみ、夜明けの黒い海に浮かぶ小さな点に向かって、思い切りヘリからダイブした。



 甲板に飛び降りて、自分のボディからパラシュートを外す。甲高い声で怒鳴りあいこちらを遠巻きにする男たちには構わず、ヒールの音を響かせながら操縦室に向かって駆ける。
 飛びこむと、パンチパーマをかけた胴回りの太い男が振り返った。
 「警視庁公安部公安第六課 の法条まりな法条まりな捜査官よ。密入国管理法違反の疑いで、第三十八長門丸を立入検査します」
 「……ちっ」
 男が目で合図すると同時に、周囲にいた若い男たちが、一斉に飛びかかってきた。
 「往生際が悪いわねッ」
 あたしは右にいた男が飛びこんでくると同時に肘で顎を打った。同時に軸足をずらして、正面の男の鳩尾に後ろ蹴りを蹴りこみ、背後にいた男にアッパーをくらわせる。
 ポカーンとしているパンチ男に、もう一度言う。
 「船長はあなたね。これから立入検査を始めます。船を止めなさい」
 「あっ……はい」
 頷くとみせかけて、うつむき、急に両腕を伸ばしてあたしにつかみかかってくる。体を横にずらして間合いを外しながらボディに膝蹴りをくらわせると、パンチ男は「おっ……うっ?」ズルズルとしゃがみこんだ。
 しまった、全員のしちゃったわ。
 やりすぎた……?
 そう思ったら、逆に開き直ったような気分になった。いまさら細かいことを気にしてもしょうがない気がして、あたしはすっきりした気分で一人頷いた。
 意識のある人間が一人もいないので、自分で計器の前に立って船のエンジンを停止させる。エンジン音が少しずつ小さくなって消えていき、操縦室が静寂に包まれたころ、あたしが携帯している無線機が鳴り始めた。
 受信して「はい、法条捜査官」と出ると、相手は名乗る前に、大きくため息をついた。
 「そのわざとらしいジジィみたいなため息は、甲野本部長ね?」
 『そのズケズケと繊細なおじさんを傷つける発言は、まりな君だね?』
 そう言うと、本部長は急に早口になり、仕事口調で言った。
 『困るよー、まりな君。また一人で先走ったでしょう』
 「そうなの。ごめんねー本部長」
 『海上保安部の巡視船艇及び航空機が、今回の摘発のためにそちらに大挙して向かってるよ。船艇十九隻、航空機十一機、延べ千人を動員しての大捕物になるらしい』
 「その割りに到着が遅いわね」
 『できれば到着を待ってほしかったんだがね、支度の遅い、海上保安部の王子様たちを』
 あたしは天を仰いだ。
 「わかってるけど、遅すぎよ。やつらがくるの待ってたら、とっくにこの船は陸地についちゃってるわ。いまだって……」
 あたしは計器を確認した。「鹿児島県阿久根市海岸まで、約七百メートル。ぎりっぎりセーフなんですからね」
 無線の向こうで、本部長は笑った。
 『そりゃそーだ。今回もまりな君のおかげ。任務達成率で君に勝る捜査官はいないよ。ただ、先走った行動ってことでちょっと絞られるとは思うけどね。今回 公安は調査報告のみで、摘発には直接関わらないってことで了解済みだったから。ま、誰かさんが絞られれば済むことでしょう』
 「誰かさんって?」
 『ボクですよ、ボク。上にこってり絞られるなー。その隙に、まりな君は旅行でしょ』
 あたしはフフッと笑った。「そうよ、この任務が終わったら久々の長期休暇だもの。今回の休暇は、フィジーよ。すてきなおじさまをみつけて……」
 『すてきなおじさまは、一人でフィジーにいないんじゃないの。家族連れかカップル、よくてナンパ目的の若いにーちゃん三人組だよ。君が会えるのは』
 バラバラバラバラ……! 複数のヘリコプターが近づいてくる音がする。あたしは 「お出ましみたいよ、海上保安部のお歴々が」と言い、計器の前から離れた。
 『お願いしますよ、法条捜査官』
 「はいはい。これ以上本部長の顔をつぶさないように、ね」
 無線を切り、操縦室から出ようとする。



 そのとき……カタッとかすかな音がした。



 振り返ろうとした途端、誰かの大きな手に肩を掴まれた。もう片方の手が、叫ぼうとしたあたしの口を顎も頬もまとめて掴むようにし、封じる。
 大きな手。
 その動きには無駄がなかった。さっきのヤクザたちとは違う。
 あたしにはわかった。こいつはあたしが公安に入るときに受けたような、特殊な訓練を受けている。ただの男じゃない。
 でも、どうしてこの船にそんなヤツが乗っているの? 中国系難民と、それを斡旋する日本のヤクザ以外乗っていないはずよ……?
 ふいに本能的な恐怖を感じた。掴まれた顔の皮膚に鳥肌が立つ。
 我に返って、背後に向かって肘を引き、相手の鳩尾に叩き込もうとする。その瞬間、繰り出した肘に激痛が走った。相手はなにかを持っているらしい。腹の前になにか……そう、鉄製の大きな鞄かなにか……。
 肩を掴んでいた手が、あたしを大きく突き飛ばした。受け身を取りながら壁にぶちあたり、倒れる。顔を上げると、黒い影が操縦室のドアをすり抜けて出ていこうとしているのが見えた。
 「まっ……待ちなさい。待って!」
 クラクラする頭を抱えながら、あたしは立ち上がり、後を追った。床になにか……黒いインクの染みみたいなものが小さな水たまりをつくっていて、それにヒールがすべり、体がぐらつく。肘をついてしまい、服に黒い大きな染みができる。
 そんなこと気にしていられない。あたしは気を取り直して、操縦室を飛び出した。  甲板に飛び出した途端、ものすごい轟音が耳をつんざいた。わたしは両手で耳をふさぎ、目を見開いた。
 小さな漁船の周りを、何倍もありそうな海上保安庁の巡視船艇が十隻以上取り巻いていた。上空にはヘリコプターが二十機近くバラバラと飛び回って、『第三 十八長門丸乗組員に継ぐ。全員その場を動かず、警察官の指示に従うように。第三十八長門丸乗組員は……』繰り返している。
 甲板を見回すと、おびえたように固まって震えている、着の身着のままの男たち。百人近くが狭い甲板に押し合いへし合いしている。
 「どっ……」
 あたしは我に返って、走り出した。両肩のホルスターに一丁ずつ装着したSIG SAUEL P228 を抜き出し、構えながら周囲に目をこらす。
 「どいて! どきなさい!」
 あたしは男たちをおしやり、甲板を走った。操縦室にいた男を捜そうとして、似たような暗い色の服をきた男たちが自分の周りを囲んでいることに気づき、舌打ちする。
 どう捜せっていうのよ、さっきの男を。この中に……。そう、鉄製の大きな鞄をもっていたわ。あれを捜すのよ、そう……。
 拳銃をつかんで駆け出そうとするあたしの腰を、ふいに誰かがぐいっと掴み、止めた。小さな女の子みたいに持ち上げられ、あたしは振り返る。
 海上保安部の制服を身につけた男が、あたしの顔を見下ろしていた。
 「公安第六課の法条捜査官?」
 「そうよ。地面に降ろしてくれる?」
 ヒールの踵が甲板の板に付く寸前で離され、あたしは元の姿勢に戻れた。
 「…………たいっへん、ごくろうさまでした!」
 男は慇懃無礼な口調で言う。
 「後は海上保安部の仕事になりますので、どうか、お引き取りを……ッ!」
 あたしは…………構えた拳銃をホルスターにしまった。
 目尻ににじみ出ているのは、多分、悔し涙。あたしはそれがこぼれ落ちないようにグイッと顎を上げた。
 ゲームオーバー。今回の任務も、最後は……。


 バッドエンドだった、ってわけ。


<to be continue……>