<江国食堂ミレニアムスペシャル>![]() |
「あんっ、雄二くん、そこぉ・・・」 ダブルベッドにうつぶせた姿勢で、杏子がたまらず声を上げる。 「バカ、隣に聞こえるだろ。あんまりでかい声出すなよな」 「そんなこと言ったって・・・」 雄二は文句を言うものの、せわしなく動かす手技を止めようとはしない。しばし無言のまま、杏子の熱を持った部分を、普段はキイボードをたたく細い指で丁寧に押さえていく。杏子はうっとりと目を閉じている。 「ハイ、おしまい」 意外にあっさりと、雄二は杏子の体から降りた。 「ね、もう少し・・・」 名残惜しそうに、杏子が甘えた声を出す。 「だって毎日毎日揉んでるだろ。元内調調査官が呆れるよ。そばの出前くらいで、腕もふくらはぎもこんなパンパンにはらして。現役の頃はもっと走り回ってたんじゃなかったのかよ」 雄二が肩をすくめてみせると、杏子は猛然と反撃した。 「えー、ケチ。だって今日は大変だったのよ! 駅前のオフィスビルまで出前に行ったら、何か知らないけどエレベーターが点検中で、3階に2人前、7階に3人前、10階に1人前、計6人前の天そば、た ぬきそば、山かけそばすべて並、階段で運んだのよ!特上3つくらい入っていればやる気もちがうのに・・・。10階なんか、10階だって言うのに、並のたぬ きよ、たぬき!カンベンしてよね。もう。 それで配達終えて下に降りたら、ビルの下に停めておいた自転車がないの。江国食堂、杏子号、あの、業務用のごっついやつよ?ちゃんとチェーンもかけておいたのに、他にも違法駐車チャリなんて周りにいっぱいあるのに、何でよりにもよってあたしのが盗られるの? おかげで出前箱担いで、駅前からお店まで走ったんだから。 ・・・ちょっと、雄二くん、笑わないでよ!」 聞けば哀れむべき話なのだが、銀色の出前箱を両手にひっさげ、三角巾に割烹着、上からダウンジャケットを羽織り、ゴム底ぺたんこ靴で街を駆け抜ける杏子の姿を想像してしまったところで、雄二はたまらず吹き出した。 雄二の両親の経営する、そば屋・江国食堂で杏子は働いている。 三角巾は別にしなくてもよいのだが、「髪が長いから」と束ねた髪を三角巾でおさえ、女将と揃いの白い割烹着、それが杏子の店でのスタイルだ。出前のとき は、それに白いダウンジャケットをひっかける。そば屋の店員としてはしごく平均的な姿だが、杏子の場合、全身に何もそこまでという気合いがみなぎり、何故 か見る者を微笑ませずにいられない。 出前も、不況と人権コストの関係から長らくやめていたのだが、結婚を機に内調調査官を退職していた杏子が言い出して復活させた。 「私体力ありますし、ようやくお店にも慣れて、せっかく人手が増えたんだから、新しいこと始めましょう!」 前向きな杏子に、姑・サチコは力強くうなずいた。店主は舅だが、実質権力は姑にある。 「わかった。やってごらん。あたしは40を前に体がきつくなって挫折したけど、あんたの根性なら大丈夫。杏子ちゃん、あんたが頑張る分だけ、ウチは儲かる気がするよ」 がっしと杏子の肩を抱き、豪快に笑う。テンションの高さが近いのだろう。江国食堂の嫁姑関係は至極良好のようだ。厨房で調理を担当する舅と、会社勤めで昼間店にはいない雄二がときについていけないほどに。 しかし、いざ始めた出前は意外な困難に遭遇した。 調査官時代に築いた体力と土地勘が杏子の強い武器だったが、出前用の原付バイクがどうにも合わなかったのだ。 かつてサチコが乗り回した、年代物の愛車「クリスティーヌ号」(彼女のクリスチャンネームに由来し、そう呼ばれている)である。エンジン音が妙に大き く、ハンドルがちょっと右に寄っているとか、妙なクセがあり、何よりブレーキが効きにくく、かかってくると急激に停止する。一つ一つは大きな障害でない し、サチコが乗りこなすうちについた車体の個性でもある。 しかし反射神経と平衡感覚のいまいち鈍い杏子が乗るには、この上なく危険な乗り物に思われた。杏子自身、何となく不安を感じており、雄二はもっと心配した。 案の定、事故を起こすまでに要した日数はわずかに3日。その日最後の出前は、出前箱2つに渡る大量注文だった。危なっかしくバイクに跨った杏子は、最初 の曲がり角で体重移動を加減できず、そのまま転倒。強運にも怪我はなく、被害はそば7人前とその容器、百戦錬磨クリスティーヌ号の故障で済んだ。 クリスティーヌ号は軽傷であったが、型が古く修理にはかえって費用がかかると言うことだった。修理したところで、また杏子が壊すのは目に見えている。出 前を断念するかと思いきや、翌日から杏子は頑丈な自転車に出前箱を積んだ。サチコは黙ってうなずき、数度の説得に失敗した雄二は杏子に携帯電話を持たせ た。 自転車に乗り換えてからの出前は比較的うまく行っていたはずだが、今回のトラブルである。 杏子は少ししょげているのかもしれない。 ◇ 「雄二くん、笑いすぎ!」 杏子に睨まれ、雄二は素直にゴメンと謝った。笑いすぎたお詫びにと、うつぶせたままの杏子の肩こう骨のあたりを両手の親指でさする。派遣のSEとして、一日PC画面を眺めている雄二とは違う硬さの筋肉を、やさしく揉みほぐしてやる。 「うふふ、ありがとぉ」 うっとり目を閉じて、幸せそうな杏子は年上ながら可愛い。 「でね、雄二くん。明日から自転車貸して欲しいの。盗難届は済んでいるから、すぐ見つかると思うんだけど」 「って?おれの自転車?」 雄二は契約派遣のSEなので、時期によって異なる派遣先へ出かけていく。派遣先は近いこともあるが、大抵は電車を乗り継いだ先だ。よって、朝は駅まで自転車である。学生時代から乗っているスポーツタイプだが、あれに出前箱をくくりつけて乗ろうというのか? 「何言ってるんだよ、あんなのに出前箱2つも載せるなんて無茶だろ!だいたい杏子、あのチャリ乗れるのか?30インチだぞ」 「えぇ〜、怜奈ちゃん載せて平気な荷台じゃない。出前箱くらい軽いわよ。雄二くんと私、そんなに足の長さちがわないし」 「そうじゃなくて、バランスの問題がなあ・・・」 「ちょっとくらい平気よ。だって年末はそば屋の稼ぎ時なのよ。こんな時期に出前中止なんて、江国食堂の信用にも関わるわ!」 寝転がったまま肩越しに見上げてくる、真剣な眼差しはすっかりそば屋の表情である。いや、こういう妙な意地は内調調査官だった頃から既にあったものだ。雄二が、杏子にはかなわないなあと思う部分。 「わかったよ。そのかわり原付みたいに壊すなよ。歩道を、時速10km以下で走ること」 「それじゃおそばが伸びちゃう〜」 ぐずる杏子の髪をなだめるように撫でる。そば屋になってまで、何でこんなに危なっかしいのだろう。 「神経鈍いくせに、何言ってんだよ。立ちこぎもするなよ」 「うん。立ちこぎはもう、たくさん」 珍しく素直な返事を、雄二が聞きとがめる。立ちこぎをして自転車で転んだりもしたことがあったのだろうか? 「一昨日ね、駅の向こう側まで出前に行ったときに、サドル盗られちゃったのよ」 「サドル?ってパーツだけ?」 「そう。出前して戻ったら、座るところだけないの。でもお店戻らなきゃいけないし、それで仕方なく、ずーーーーっと、立ったまま自転車こいできたの。そこの自転車屋さんまで。おかげでまだ筋肉痛よ」 出前ルックで、サドルのない自転車に跨り、必至に立ちこぎする杏子を想像し、雄二はまた吹き出しかけた。 が、すぐに思い返して真顔に戻る。 「それ、おれ聞いてなかった」 「御近所で最近多いらしいわよ。サドルだけ持ち逃げするイタズラ。最近の子供も陰湿ね〜」 「・・・それって、子供のイタズラなのか?」 杏子はのんびりしているが、雄二は眉をひそめた。10年くらい前に学校で、女性の自転車のサドルのコレクターが噂になったことがあった。当時子供だった 雄二は気にも留めず、その後その噂がどうなったのかも知らないが、何のことはない。一種のフェティシズム、ありていに言えば変質者だ。 一昨日サドルを盗まれ、今日自転車を盗まれる。偶然、杏子ばかりがこんな目に遭うだろうか? 「杏子。チェーン、かけてたって言ったよな?」 「うん」 「最近、変な奴が周りをうろついてたりしないか?イタズラ電話とか、差出人不明の手紙とか来たりしないか?」 「急になに、雄二くん?怖い顔して」 わけのわかっていない杏子を無理矢理起こし、両肩をつかんで覗き込む。 「ええと・・・出前を始めてから電話はたくさん来るけど、変なのは別に。あ、ラーメンとギョウザ注文した人がいたわ!あれイタズラだったのかなぁ?手紙はダイレクトメールが多いから、ほとんど差出人不明」 雄二ががっくりと肩を落とす。 「あのなあ、杏子。そういうんじゃなくて。自転車のサドル盗られたり、自転車盗まれたり、そんな事が続くって、お前誰かに狙われてるんじゃないかってことだよ。他になくなった物とか、ないか」 「えっ、あ?そうか?・・・でも、他には何も、ないんだけど・・・」 杏子にはまったく心当たりがないようだ。雄二の杞憂なのか、杏子がうかつ過ぎるのか、咄嗟にははかりかねた。本当に何もなければよいが、何かあったときに本人がこの調子では身の守りようがない。 できることなら、出前は愚か、いっそ店へも出したくない。それでなければ、自分が傍にいて守るか。だが、師走のそば屋を離れることに杏子が頷くわけはな いし、2000年を迎えようというこの年末、仕事を放り出すわけにいかないのは、SEである雄二も同じだった。そばにいない間に、何かが起きたら? それが、変質者の類ならともかく、万が一、内調時代に関わった犯罪者の報復だとしたら。サドルがなくなり、自転車がなくなり、次になくなるのは何だろう?一連の出来事は、犯人からのメッセージなのではないか? ・・・だから、内調をやめてくれと言ったのに。 正義感が強く、人一倍の努力家で、真面目でひたむきな姿に、誰もが思わず助けたくなるような、だがそれだけの普通の女の子だ。パニックに陥れば足が竦む し、ずばぬけた運動神経があるわけでなし、射撃の腕に至っては教官がさじを投げている。そんな人間を、目的のためには手段を選ばないような相手とやりあう ような職につけておくのは、死んでくれと言うようなものだ。 内調を辞めて、俺と結婚してくれ。それだけのプロポーズを、杏子は二週間おいて、受けた。あのときの迷いのない笑顔には、雄二の心がどれだけ伝わっていたのだろうか。 「ごめんね、雄二くん。心配かけて」 表情に不安が出ていたのだろう。杏子が雄二の顔をじっと覗き込み、うつむいた前髪をすいた。 「でも大丈夫。悪いことなんか何にもないし、私、雄二くんが思ってるより、強いのよ。運動神経はともかく、運だけはいいし。・・・こんなところで、負けたくないの」 何に負けるというのか、強く言い切る表情に迷いはない。事態はまったく見えていないが、雄二の思いは伝わった、そういう目だ。不思議なもので、杏子にとってはそれが力になる。そのことを、雄二は知っている。 「・・・わかった。自転車は貸すけど、いるときは俺が出前行くからな。何かあったらすぐ呼べよ」 「うん。うん。もう、だからそんな泣きそうな顔しないでよ」 俺は泣きそうな顔なんか・・・言いかけた目元を、杏子の唇がおさえる。 「涙、出てるもん」 涙なんか出ていたのかどうか。屈託のない杏子の笑みを、雄二は眩しく見つめた。 ◇ けたたましく、電話が鳴る。いいところに。杏子が受話器を取ると、耳に当てずとも響く、高い声。 「杏子さん、雄二貸して!」 雄二の幼なじみの、工藤玲奈だ。母親の会社が経営不振に陥り、思わぬ事件に巻き込まれた後、自ら会社を興してたくましく生きている。いわゆるベンチャーの社長で、インテリア関連の輸入販売を手がけて内外を飛び回り、たまにこうして雄二に呼び出しをかけてくる。 用件は、会社の商品管理システムの運用・管理について。雄二にとってはいいアルバイトになっているが、もう少し、新婚家庭を配慮した呼び出し文句を考えてもらいたいものだ。 「え?修正パッチだろ、それ。当てないと2000年まずいぜ。・・・31日?・・・派遣はないけど。・・・わかったよ。 年越しそば?うち、そば屋だぜ。うちで食べるって。・・・何だ、それ?玲奈!」 二分足らずで一方的に電話は切れた。そう長話にならないのは、いつものことだ。 「杏子、大晦日の夜10時に年越しそば4つ。玲奈と運転手と、俺と杏子の分。特上でいいって」 「何それ?」 短い電話で告げられた用件は、雄二が構築したシステムの2000年対応その他と年越し待機の依頼。それに何故か、年越しそばの出前。要するに、新婚夫婦 に玲奈のオフィスで年を越せということらしい。運転手を残しておくと言うことは、そのまま年始参りにも巻き込むつもりだろうか?抗議する間も、意図を確か める間もなく切られてしまった。 気まずい沈黙の後、雄二が杏子を伺い見ると、事情を察したらしい。大体、よく通る玲奈の声は、受話器の外に洩れていたはずだ。 「わかった。特上ミレニアム年越し、4つね。・・・ね、雄二くん、今年の年越しメニュー、聞きたくない?」 思ったよりも杏子の反応がやわらかい。それどころか、むしろうれしそうな表情に、雄二に別の不安がふとよぎる。 江国食堂では年越しそばメニューは年毎に変わる。その年の気候によって仕入れやすい食材でというのが主な動機だが、杏子の案で、今年は何か趣向を凝らしたのだろうか? 「千年紀にふさわしい、江国食堂ミレニアムスペシャルメニュー、その名は、2000そば!・・・ニシンが載っているから2000なの!」 ぐった〜と、雄二の全身から力が抜ける。そのまんまのネーミング、しかもありきたりのベッタベタ。 「それ、杏子が考えたんだな?」 「うん!お義母さんも大絶賛!」 雄二はおそらくその場に居合わせたであろう、父に密かに同情した。 ◇ かくして迎えた大晦日。 その後、杏子が災難に見回れることはなかった。とはいえ、杏子のことだから、気づいていないだけという可能性も排除はできない。 雄二は午前中から玲奈のオフィスへ出社した。 雄二自身が構築した簡易システムとは言え、ここのところ派遣のほうが立て込んでおり、玲奈の会社もそうそう業務を停めないとあって、ためこんだ作業が山 積みだった。サーバーの2000年対応の修正パッチと、クライアント数台の2000年対応、OSのリリースアップに、ウイルス対策と夏からほったらかしに していたデータのバックアップ。 杏子は朝から雄二のお弁当・・・プチトマトが入っていればとにかくお弁当らしい・・・を作り、おせちを作り、午後からはお店に出て、夜10時に玲奈のオフィスへ出前の予定だった。 玄関で靴を履いてから思いつき、杏子に声をかける。 「9時頃いったん抜けて、迎えに来るからな」 雄二の声が聞こえたのかどうか、台所からの杏子の返事は、 「大丈夫〜、あっ、大丈夫じゃない。合わせ酢はこっちだ〜」 だった。 ともかく、早めに作業を終わらせて迎えに来れば済むことだ。雄二はそのまま家を出た。 だが雄二がすべての作業を終えたのは、あと15分ほどで10時になろうかという時刻だった。徒歩だと、店まで急いでも10分はかかる。とにかく上着をひっかけながら、雄二は立ち上がった。 「雄二、どこ行くの?」 デスクから、玲奈が声をかける。語調の強さは相変わらずだが、長かった髪を顎のラインに揃えたせいもあるのだろう、20代の女の子がそれを発しているというちぐはぐさが今では感じられない。 小さなオフィスで、社長と言えど同じフロアに席がある。玲奈も多忙のようで、雄二が来る前から、書類整理だの領収書チェックだの得意先への年賀状書きだ のを、「運転手」呼ばわりされている、秘書らしい男とこなしていた。高校生の頃からは想像もつかないようなキャリアぶりである。アメリカの大学でMBAを 取得してきたというのは、ハッタリでもないらしい。 「・・・そば、迎えに行ってくる」 「杏子さん?でももう出ちゃったんじゃない?コーヒーいれるところだし、ここで待ってれば」 玲奈の目線が示す先に、「運転手」が几帳面にコーヒーの粉を計っている。 たしかに、この時間に出ても行き違いになる可能性がある。雄二は思い直して、傍らの電話を手に取った。 「悪い、電話借りる。・・・あ、おふくろ?杏子は?・・・わかった携帯に電話してみる」 杏子は既に店を出たらしい。いったん受話器を置いて、今度は杏子の携帯の番号をプッシュ。新婚さんですねぇ、という「運転手」の冷やかしまがいを聞き流 し、杏子の声を待ったが、いっこうに出ない。15回コールして「ただいま電話に出ることができません」という機械音に切り替わった。 「っかしいな・・・何で出ないんだよ?」 呟いた途端、ガシャーン、と高い音が響いた。どこか悲鳴のように、いやに長く反響する。今の雄二の不安をかきむしるには、充分すぎる音量だった。 たまらず、雄二は外に飛び出した。 「室井、大丈夫ー?何を割ったの・・・あっ、ちょっと雄二?すれ違いになるわよ!」 ◇ すれ違うものか。おれが、杏子を見つけられないわけがない。杏子が呼んでいるのに。 人気の消えた大晦日のオフィス街を、雄二は走った。杏子がたどるであろう道をまっすぐに。このルートにいない可能性や、走っていては見落とす恐れもも あったが、不思議とわかる気がしていた。一種のカンというのか、決定的な場面では何か不可思議な力が働くはずだ、二人の間では。 果たして、ビルを出て2つ目の赤信号を渡ったところで、杏子の姿が見えた。全速力で、自転車をこいで来る。 「杏子!」 「雄二くん!」 雄二の姿を認めるなり、自転車を飛び降りて駆け寄ってきた。抱き止めると、うっすら目に涙をためている。 「さっきから誰かに尾けられてるみたいなのっ」 杏子の言葉に、雄二は顔色を変えた。素早くあたりを見渡すが、人影はない。だが、尾けられている、という感触は肉眼で否定できるものではない。逆に、単なる変質者というセンが排除され、少なからず尾行という行為に慣れているという可能性が色濃くなる。 「こっち、行こう。バカ、出前箱は下ろせよ」 緊張に握りしめられた杏子の手から出前箱をもぎ取り、自転車もろとも植え込みに手早く押し込んで、雄二は一番近い路地に飛び込んだ。 耳を澄ますと、たしかに車輪のきしむような音が聞こえてくる。自転車で尾行しているのだろうか?ふと違和を感じたが、近づきつつある気配に一分の隙もな いことに、全身の神経が逆立った。間違いない、プロだ。雄二と杏子で、太刀打ちできるような相手ではない。何の根拠もない、だがはっきりした感触だ。杏子 も同じように身を固くしている。 二人は無言で路地の奥へ進んだ。反対側へ抜けられるはずだった。 が、今度は進行方向から例のかすかな音が聞こえてくるではないか。 ・・・先回りされたのか?それとも? 「杏子、走るぞっ」 杏子の手を引っ張り、もと来た方の路地入り口へとって返す。相手の位置は賭けだったが、大通りの方がまだ人通りがあるかも知れないと踏んだのだ。 だが大晦日のオフィス街、灯りのついている窓は点々とあるが、人通りはまったくと言っていいほどなかった。 まずい・・・このままだと。 思う間もなく、パンッという軽い破裂音が響いた。漂うかすかな火薬の匂い。銃声?とっさに雄二は杏子の背中を突き飛ばすように、植え込みに飛び込んだ。 しかし、相手が銃を持っていたら、どの道かなわない。身を起こすと、街灯を逆光に何者かが植え込みに分け入ろうとしている。 「動かないで!」 凛と叫んだのは、杏子だった。 拳銃を構えるポーズで両手をつきだし、相手を睨みつけている。地べたに座り込んだままで、銃など持っているはずもなく、明らかにハッタリだったが、睨み上げる眼光には修羅場をくぐり抜けてきた元調査員の迫力があった。 「・・・おー、こわ」 と、杏子の銃を向けられた奴は言った。 「頼むぜぇ、桐野。俺、今、ノドつぶれてんの」 両手を上げながら近づいてきた男には、首に巻かれた白い包帯の異様を除けば、見覚えがあった。目を覆う長髪に、着古したジャケット、どちらかというと端正な造りなのに、何故だか緊迫感に欠ける口元。 「あまぎ、こじろうさん!?」 杏子が頓狂な声を上げる。 「何でこんなところに・・・何で私を尾けたりしたんですか!?」 「別に尾けたわけじゃないぞ。あまり大声を出せないから、小声が届く範囲まで接近しようと思っただけだ。 それをお前が無用に緊迫して逃げるから・・・つい」 「つい?」 「協力してみた」 へたへたっと、杏子が目に見えて脱力する。 小次郎の左手にはクラッカーが握られ、色とりどりのテープがだらんとぶら下がっている。さっきの破裂音と火薬はもしかするとこれだったのだろうか? 「なかなかいい演出だったろ。年末福引きの商品だ。一回引いて大当たり、中身がくっついたままのダストレスタイプ。 ・・・っかしお前ら、仲いいなー。この寒空の下、植え込みエッチで年を越そうとは、感心を通りこして信じがたいぞ」 小次郎がしゃがんで、もつれあって転がっている二人を覗き込む。 「誰がこうさせたんですかっ!いったい、何の用ですか!?」 杏子がかみつくと、小次郎はハテと顎をひねった。 「あ?そうだ。借り物を返そうと思ってな。年内に」 私は何も貸してないわよと、杏子が雄二を振り返る。雄二にも貧乏探偵に貸したものの心当たりはない。 顔を見合わせる二人に、小次郎が顎をしゃくって植え込みの外を示す。そこには、小次郎が乗ってきたと思しき、それにしては見覚えのある自転車が停めてある。 「あっ、私の杏子号!小次郎さんだったんですか、自転車泥棒は!」 「おいおい〜ひどい言われようだな〜。借りて返しに来ただけだ。借りるとき、ちゃんと声はかけたぞ」 「聞いてませんよ!」 「『お〜い、借りるぞ〜』って言ったら、激しくうなずきながら走り去ったぞ」 「出前箱が重くて走ると頭揺れちゃうんです!大体、チェーンかけてあったのに、壊したんですか!?」 「一番右側の番号一桁を一つ奥に回しただけだったろ。右利きの人間が、急いでるときにやりそうなこった」 やれやれと肩をすくめて小次郎が立ち上がる。 「親切にもオマケをつけてやったぜ。サドルパーツのスペア」 よく見れば、自転車のカゴには古いサドルが入っている。間違いなく、数日前に盗まれ、その不在が杏子の筋肉痛の原因となったサドルだ。 「これもだったんですか!いったい何の理由で・・・」 「おいおい待てよ。サドルは俺じゃないぜ。例えサドルフェチだったとしても、桐野なんかは守備範囲外だ。 女のサドルパーツを集める変質野郎の噂は聞いているだろ?成金のオバチャンからストーカー駆除の依頼が来て、捕まえてみたらそいつがビンゴ、噂のサドルマニア。おまけに、『江国食堂』なんて渋いロゴの入ったサドルまである。 ヤサまでの追跡にこいつを使わせてもらったんで、押収物件からくすねてきた。別件が立て込んで、返すのが遅くなったんで、まー、利子ってとこだ。 ・・・ふう、ノドを痛めているのに、説明的な長ゼリをしゃべらすなよ」 ノドの包帯を押さえ、小次郎が一息つく。たっぷり1分、小次郎に見下ろされたまま、杏子と雄二はその場に座り込んだまま動けなかった。 その静寂に、耳慣れない振動音がまじる。 「携帯のバイブじゃないか?」 小次郎に言われ、杏子がわたわたとダウンジャケットのポケットを探った。携帯電話を取り出し、耳に当てる。 「・・・あ、お義母さん。・・・すみません、ちょっと・・・え、あっ、大丈夫です!ハイ、雄二くんも一緒です。すぐに行きます」 ダウンジャケットのポケットに入れた携帯電話をバイブにしていたのでは、なるほど、さっき雄二がかけたときに気がつかなかったわけだ。雄二はこめかみに指を当てた。 「・・・行こう、玲奈ちゃん待ってるって。おそば、のびちゃったかなぁ〜」 埃を払って、杏子が立ち上がる。応えているのかいないのか、割にけろっとした表情だ。雄二はもう少しへたっていたい気分だったが、杏子に手をのべられ、無理矢理立つことにする。 「何なら、のびたそばは、天城探偵事務所で引き取ってもいいぞ。勿論タダで」 勝手な尾行で小腹が空いたらしい小次郎を無視し、杏子と雄二はそれぞれの自転車のスタンドをはずした。 「杏子、出前箱は俺が持つよ」 「でも雄二くんの自転車持ちにくいから、こっちで持つよ」 「おれがいるときはおれがやるって言っただろ、出前。最近忙しくてあんま店にいなかったし、今日なんか、年越しにこんなとこ呼び出して、ゴメンな」 「ううん。出前しながら年を越すって、そば屋冥利に尽きるわよ」 ◇ 甘い会話で遠ざかる新婚カップルを、小次郎が除夜の鐘ならぬ腹の虫をBGMに見送ったのは、記念すべき2000年の始まる2時間足らず前だった。 Fin. |