「弥生のエプロン」

秋の日差しはもう傾いていたが、セントラルアベニューはまだ閑散としていた。定時上がりのサラリーマンであふれ返るには少し早い時間。

 いつのまにか長くなったビルの影に、弥生はふと足をすくめる。

 今日も恋人と喧嘩をした。

 二人で暮らしていた家を飛び出して一週間。仕事のパートナーでもある恋人が少しやつれた気がして、弥生から声をかけた。

 小次郎、最近ちゃんと食べてるのか、今晩うちに食事に来るか?

 うち、というのは、一週間前に借りた弥生のマンションだ。弥生には甘かった父の突然の失踪後、残された弥生と父の弟子である小次郎、二人きりの暮らしには無理があると感じていた。

 恋人同士ではあるのだが、否、恋人同士だからこそ一緒に暮らせないこともある。相手が小次郎のような男ならなおさらだ。

 別に、小次郎のことが嫌いになったわけではない。頼もしかった父のいない今、むしろ本心では小次郎に依存しきっている。弥生はそれを自覚して、家を出た。仕事のパートナーとして、恋人として、あるいは違った形で、小次郎と対等に生きるために。

 だが小次郎はそんな弥生に冷淡だと思う。他にマンションを借りたことを話しても、理由も聞かず帰って来いとも言わない。探偵事務所の所長であった父の穴を埋めるため業務に忙殺されながら、自分の知らない案件を抱えているようでもある。

 そして今日の弥生の食事の誘いも、たった一言で断ったのだ。

「あー、他に予定がある」

 こんなことに傷ついてしまう自分も弱いと思う。だが弥生には、この頃の小次郎がいったい何を考えているのか、すっかりわからなくなっていた。

 そうか、もういい。言い捨てて、上がりにはまだ早い時間に事務所を飛び出してきてしまった。

 事務所へ戻るべきかもしれないが、戻れば小次郎と顔を合わせることになる。

 弥生は煙草に火を付けた。ショッピングモール入口に設置された灰皿に寄り、煙をひとつ吐く。一連の仕草は最近すっかり無意識だ。

 自分の吐いた煙が風に流されるのを見届けて、今日はもう上がってしまおうと決めた。来客や渉外事は済んでいたし、少々の雑事は、あとで所員に電話を入れればいい。

 そうとなれば、買い物だな。

 事務所に入り浸りで、引っ越したばかりのマンションには、眠る以外に生活に必要なものがほとんどない。せっかくこんな時間にこんな場所にいるのだから、気分転換がてら必要なものを買い込むに限る。弥生はヒールを鳴らしてショッピングモールに入った。

 弥生は、オープンしたばかりの雑貨屋でマグカップを手に取った。父と小次郎とお揃いで使っていたイニシャル入りマグは、家に置いたまま、取りに行っていない。父が帰ったとき、マグが足りないときっと淋しいはずだから。

 新しく選んだマグは、ややアンティークなデイジーモチーフに縁取られ、自分には少し可愛すぎるかと思う。

 でも、こういうの、結構好きなんだよな。

 弥生が苦笑した瞬間、誰かに思い切り背中を叩かれ、危うくマグを取り落としそうになった。

「はろはろ〜」

「・・・まりなか、驚いたぞ」

 赤味の強い髪をボリュームたっぷりに束ねた彼女は、満面の笑みで立っていた。一週間前に、マンションの隣人として再会した、悪友のまりなだ。

「ちょっと、『悪友』ってのはいらないわよ」

「なんだ?」

「いいの、こっちの話。

それより珍しいじゃない、こんな時間にこんなところで」

 いや、たまには買い物がしたくなってな。言い訳とも本心ともつかない弥生の口上を、聞いているのかいないのか、まりなの視線はもう他に行っていた。

「あら〜、エプロン選んでたの〜。いいわね、こういうの新婚みたいで」

 たまたま食器コーナーの横にエプロンがつるしてあっただけなのだが、まりなにはそう見えたらしい。この店のイメージだろう、純白でロマンティック満載のエプロンの中から、もっともフリルの多いものをおろして、弥生の胸に当てた。

「ど?」

 どう、と聞かれても、弥生はエプロンを選んでいたわけでもない。言われてみれば、エプロンも家に置いてきてしまっていたが。

「いまいちわかんないわね。試着しなさい、試着。

 鏡どこ?あ、こっちこっち。あ、店員さん、これ試着しますね」

「待て、まりな。わたし、エプロンは別に。

こら、大体こういうの試着しないだろう、ふつうは」

考える間もなく、マグを取り上げられ、商品の壁掛け鏡の前に立たされ、弥生はエプロンを着せられていた。まりなが背後にまわり、リボンをぎゅうぎゅう結んでいる。

「おい、苦しいよ、まりな」 「なーに言ってるの!こういうエプロンはきゅっと結んでボディにフィットしてこそでしょ。勿論裸にエプロンでもいいけどー。

 あら、いいじゃない」

 肩越しに鏡を覗いたまりなが笑う。カントリー調のウサギフレームの鏡の中には、真っ白なエプロン姿の弥生。かっちりしたスーツの上から着ているだけに、フリルの愛らしさが際だった。

 こういうのも、たまには、ありか?一瞬鏡に魅入ってしまった弥生に、まりながたたみかける。

「まるで新婚さんねー。弥生、買っちゃえば。カレも、喜ぶんじゃない?」

 カレも、喜ぶ?まりなの言葉に弥生は一瞬きょとんとし、それからくすぐったくなった。

「まりな、そんなんじゃないよ、アイツは」

呟いて、きついリボン結びをほどき、エプロンを脱ぐ。

「あら、脱いじゃうの?似合ってたのに」

まりなが心底残念そうに。

「バカ、レジに行くんだよ。こんなの試着しちゃって、買わないわけにいかないじゃないか」

「あらそーう?じゃ、はい、これ」

さっきまで弥生が手にしていたデイジーマグを手渡し、まりなはにこーっと笑った。いや、にやーっとのほうが正しい表現かも知れない。

「じゃ、私もこれからデートだから。またねー」

 ひらひらと手を振って、まりなは行ってしまった。

 何なんだ、いったい。大体「私も」って何だ。私は別にデートなんかじゃ。

 弥生はともかく、マグとエプロンを持ってレジに向かった。



 エプロンも買ったことだしと、夕食は久しぶりに腕を振るうことにした。最近は忙しさに取り紛れ、マンションでは調理器具や調味料の買い出しが済んでいなかったこともあり、外食や簡単なものばかりで済ませていたのだ。


 メニューはビーフシチュー。硬いすね肉をやわらかく煮込むのは、早く帰ったときでもなければできないし、煮込んでいる間に事務所にも電話できる。

 スーツのジャケットだけ脱いでエプロンをしめ、セントラルアベニューで仕入れてきた食材や調理器具を調理台と冷蔵庫に手際よく並べていく。弥生はこうい うことは好きだし、自分に向いていると思う。探偵業も嫌いではないが、家事をしているときのほうが気持ちは穏やかだった。

 野菜がすべて切られ、すね肉のアクすくいに一段落した頃、弥生は事務所に電話をかけることにした。所長室ではなく、所員の女の子のデスクの番号なら、小次郎と話さずに済む。

「はい、桂木探偵事務所」

 だが2コールで取った男の声は、小次郎だった。一瞬ためらって、弥生は観念した。

「・・・私だ。山口君は帰ったのか?」

「ああ。今日はもうみんな帰したぜ。残業続きだったからな。たまにはいいだろ」

「お前も用事があったんじゃないのか?」

「あっ、いやその、連絡待ちなんだ」

受話器の向こうでがさがさ書類をひっくり返す音がする。・・・一人で何をしているのだろう?

「それより弥生ー、腹が減った」

いつもと変わらぬ、いや少し甘えた口調で、しゃあしゃあと小次郎が言う。数時間前に夕食の誘いを断ったのは、小次郎のほうなのだ。

「そんなこと、私の知ったことか」

言い捨てて、エプロンには似合わぬ煙草を手にする。慣れた仕草でくわえ、ライターで火を付け、煙を一つ。それから2、3の事務連絡を伝言し、

「ところでお前、一人で事務所に残って何してるんだ?」

「腹減らしてる」

弥生の問いに、0.2秒で小次郎が答える。心なしかギクッという気配があったのは、気のせいか。

「弥生、さっきは悪かった」

 少し真面目な小次郎の声。途端に弥生の思考は霧散した。だからメシ・・・と情けないことを言いかけるのを遮って、

「習慣でな、少し作りすぎた。夕食がこれからなら、うちに来るか?」

やさしい声を出してやる。

「少し、遅くなってもいいか?」

「ああ。どうせもう少し煮込みが必要なんだ。待ってる」

弥生は電話を置き、もう一本出しかけていた煙草をケースに戻した。



 小次郎が現れたのは、実際ずいぶん遅くなってからだ。


「遅かったな。まさか迷ったわけじゃないだろう?」

ドアを開けた途端、小次郎は弥生の顔を見、それからつま先まで見下ろして、慌てて中に入り勢いよくドアを閉めた。

「や、弥生、なんちゅう格好・・・」

「え?これはまりなに無理矢理買わされて・・・おい!」

小次郎は話も聞かず、前屈みにに弥生の横をすり抜け、場所がわからなかったのだろう、クロゼットを開けてから、トイレに飛び込んだ。

「おい、小次郎、どうした!なんだ人のうちに来るなり失礼だぞ!」

「うるさい、頼むからあっち行っててくれ!」

「なんだそれは!おい、小次郎、ここを開けろ!おい!」

トイレのドアをドンドンと叩く。弥生はすっかり動転していた。

 どういうことだ、これは。このエプロンのせいなのか?小次郎のアホ、まりなのバカ。

 10分後、いい加減弥生が疲れた頃、トイレのドア越しに小さな声が聞こえた。

「は、はだかにエプロンは・・・刺激が・・・」

 ???

 弥生は玄関脇の鏡に映る自分の姿を見た。ジャケットを脱いでしまったので上半身はシルクのキャミソール型タンクトップ、下はスーツのミニ丈タイトスカー ト、それを純白フリルのエプロンがすっぽりと覆っている。ストッキングを履いているにしても、正面から見ると、なるほど見えないこともないが・・・。

「ばっ、ばか!何言ってるこのスケベ!そんな格好わたしがするか!

 小次郎、出てこい、ぶん殴ってやる!」

 弥生は再びトイレのドアを乱れ打ちにした。

 サンマンションの夜は、こうして今夜も更けていく。

−完−